276729 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Spring Has Come

Spring Has Come

陣痛・入院~出産まで

その後、出産予定日が近づいてから
夜中たびたび前駆陣痛に悩まされるようになる。
ほぼ規則的で、目が覚めてしまうほど痛い。
病院に電話しようか迷っているうちに治まる
→翌日また同じことの繰り返しであった。

あの可愛らしいエコー写真を持ち帰ってから9日後、4月23日、朝。
本格的と思われる陣痛が始まったのでいよいよ病院に電話し、
妹の運転する車でN病院に駆けつけた。
夫は仕事先で泊まっており、いなかった。
(*余談だが、病院へ行く前に
 「大きなお腹の写真を一枚も撮ってなかったな」と思い
 部屋の中で写真を撮ってもらった。
 言わば、春歌と私の2ショット写真ということになるだろうか?)
病院に到着する寸前、またもや痛みが治まる。
それでも、辛くて夜も眠れないことを訴えた結果、入院することが出来た。

頻繁に来る痛み、そして間もなく遠ざかる波。
途中で帰宅するには辛く、かと言って急を要するでもなく
手持ち無沙汰な時間が過ぎ、ついに一日が終わり、
翌朝を迎えてしまった。

4月24日。運命の日。
母も息子たちを連れてたびたび様子を見にやって来た。
母は私のお腹を触り、
「(春歌の)形が外からでもはっきり分かるねぇ。
 まだ生まれないのかい?早く出ておいで」
と話しかけたりもした。
陣痛を促そうと、私は次男をおんぶして廊下をウロウロしたりした。
廊下に続くロビーでは、我が子の誕生で幸福に満ち溢れた夫婦、
孫に会いに来た年配の人、親族などが穏やかに談笑している。
自分たちも数時間後には彼らと同じになると思っていた。
同じになる筈だった。

昼前に母は私の家に戻っていった。
もし母を午後まで引き止めていたら、
その後にやってくる信じられない痛みを訴えることが出来て
最悪の事態を避けられたかも知れない。
しかし、踏ん切りのつかない状態に、私自身も母も疲れていた。
と言うより、誰が最悪の事態など予想しただろうか。
「まあ、生まれたら連絡いくからさ」
「そうだね、じゃあせいぜい頑張って」
そんな言葉を交わしたように思う。

母が戻る少し前に、トイレに行った時に妙な出血があった。
色や見た目がレバーのような感じ。ただし、ごく少量。
こんなことは初めてだったので、助産師に報告した。
「大丈夫。」
と返事が返ってきた。
そっか、大丈夫なのか。
母にも話すと心配したが、助産師が大丈夫だと言ってたよ、と言うと
渋々納得したようだった。

昼食が出される頃には、痛みはだいぶ本物らしくなっていた。
最後まで食べるのは不可能だった。
あー、そろそろだな、と思い、呼吸法で一生懸命痛みを逃そうとした。
しかし、何かが妙である。
上の子達の出産の時は、苦しみながらも理性はかなり残っており、
痛みで声を上げたのは最後の最後、分娩台の上でだけだった。
今回は違う。
駄目だ。我慢できない。声を上げなければどうかなりそうだ。
陣痛室のベッドの上で、私は悲鳴を上げてのた打ち回った。
病院の陣痛室はカーテンで仕切られてベッドはいくつもあり、
この日はラッシュだったらしく、他に複数の妊婦がいたようだった。
私の痛みが本格的になるちょっと前にも、急激に産気づいた人が
分娩室に運ばれ、たった数回のいきみの後に元気な産声が聞こえてきた。
助産師は一人以上はいたと思うのだが、
私の悲鳴を聞いてもほとんどやって来てくれなかった。
大げさに騒ぐ妊婦だな、としか思われなかったのかも知れない。

どのくらい経過しただろうか。助産師が様子を見に来た。
全開大になったのか、それに近くなったのか分からないが
分娩室に行きましょう、と言い、ベッドごと私を運んだ。
既に朦朧とする意識の中、O先生の慌てたような声が聞こえた。
「心音が落ちてる」
「いつチェックしたんだ」
「小児科の先生呼んで」
「酸素を」
もはや怒鳴り声だった。
回りを見ると大勢のスタッフが取り囲み、
一人の助産師が私の上に乗って、お腹を押し始めた。

O先生も柑子を使い、怒ったような顔をして
春歌を引き出している様子だった。
私はまるでスプラッタ映画の犠牲者のごとく、
目を見開いたまま甲高い悲鳴を上げ続けていた。

backhomenext


© Rakuten Group, Inc.